THE BEACHES CLUBへようこそ

関東で活動しているTHE BEACHES CLUB(ザ・ビーチズ・クラブ)です。主な活動として

  • ビートルズ楽曲だけで行うライブ
  • 年2回のカラオケoff会
  • 夏のバーベキュー・冬の鍋

などなどを行っております。今ではライブを中心に、関東のライブハウスをうろうろしております。

ビートルズ好きな人にも、これから好きになる人にも、わかりやすいサイトがあればと思い、立ち上げたwebページです。

興味を持った方は、バンドをやったり、カラオケで歌ったり、アルバムを買ったりと、ビートルズの魅力にはまってください。

ビートルズの魅力

ザ・ビートルズThe Beatles)は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンドである。 主に1960年代に活動したロックバンド。1962年10月にレコードデビュー、1970年4月に事実上解散(詳細はこちら)。"Fab4"という愛称もある。

バンドの活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間1位を獲得した。11作の週間1位獲得合計数は162週。年間売り上げ最高アルバム獲得数4作と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続1位獲得30週はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が1位を獲得。さらにアメリカを初め各国でも高いセールスを記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。本国イギリスでは1965年に外貨獲得に貢献したとしてエリザベス2世からMBE勲章を授与されている。1988年に「ロックの殿堂」入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称される人気を獲得。それに加えて後期には音楽的にも評価されている。

バンドとメンバーについて

バンド名の由来

「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョンの発言によれば、この名前を提案したのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名である「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツにあやかり、同じ昆虫で、同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズを『乱暴者』から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演の仕事を依頼してきたブライアン・キャスにその名前を嫌われ、出演条件として改名を提案され「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名前が提示された。話し合いの上、お互い譲り合う形で『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と名乗る事になったが、その後ロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗る様になった。ただし同年8月から行われた最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告に出演者として記載された時点で「The Beatles」となっている。

メンバー

名前 プロフィール 愛称 担当
ジョン・レノン
(John Lennon)
1940年10月9日 - 1980年12月8日(満40歳没)
イングランド マージーサイド州リヴァプール
ジョン ボーカルリズムギター、リードギター、ベース、ハーモニカ、オルガン。
ポール・マッカートニー
(Paul McCartney)
1942年6月18日(69歳)
イングランド マージーサイド州リヴァプール
ポール ボーカルベース、リードギター、アコースティックギター、ドラムス、ピアノ、メロトロン、モーグ・シンセサイザー。
ジョージ・ハリスン
(George Harrison)
1943年2月25日 - 2001年11月29日(満58歳没)
イングランド マージーサイド州リヴァプール
ジョージ ボーカルリードギター、シタール、タンブーラ、ソードマンデラ、モーグ・シンセサイザー
リンゴ・スター
(Ringo Starr)
1940年7月7日(71歳)
イングランド マージーサイド州リヴァプール
リンゴ ボーカルドラムス

デビュー前のメンバー

名前 プロフィール 愛称 担当
ピート・ベスト
(Pete Best)
1941年11月24日(70歳)
イギリス領インド帝国 マドラス管区 マドラス
ピート ドラムス
スチュアート・サトクリフ
(Stuart Sutcliffe)
1940年6月23日 - 1962年4月10日(満21歳没)
スコットランド エディンバラ
スチュ ベース

ビートルズは元々クオリーメンという名称で1957年に結成。それ以降はジョニー&ムーン・ドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名を繰り返しており、ビートルズと改名するまでに複数のメンバーが入れ替わっている。ビートルズと改名してから在籍したメンバーは通算6名。その内2名は1962年10月5日にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする以前にバンドから脱退している。スチュアート・サトクリフ(Stuart Sutcliffe)はベース担当として1960年1月に加入し、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退している。この後ポールがベースを担当するようになり、バンドは4人編成になる。1962年4月10日、21歳で死去。映画『バック・ビート』は彼を主人公として描写した。ピート・ベスト(Pete Best)はドラムス担当として1960年8月に行われた最初のハンブルク巡業の直前に加入し、1962年8月に解雇された。この直後にリンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」からビートルズに加入。

基本編成

上記の通り、パーロフォンからレコード・デビューした1962年10月の時点で「ギター×2、ベース、ドラムス」という編成となっている。この編成は1961年に「ギター×3、ベース、ドラムス」という編成で行われた2度目のハンブルク巡業(詳細はこちら)が終了した時点で、それまでベースを担当していたスチュアート・サトクリフが脱退して4人編成に変わり、ギター担当の1人だったポールがベースに転向した事で確立された。さらにデビューの直前である1962年8月にドラムスがピート・ベストからリンゴ・スターに交代し、解散するまでこの編成が続いた。デビューから2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたため、原則としてこの編成による一発録りで録音されていたが、ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!から4トラックが導入されて多重録音が可能になると、演奏のみのベーシック・トラックとボーカル、リード楽器を別個に録音するといった録音方法が採られる様になる。

中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時に、ジョンがベースを担当する例も存在する他、1968年のホワイトアルバム録音時におけるリンゴの脱退騒動に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」はポールがドラムスを担当している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。ジョンのリードギターは「ゲット・バック」や、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは「涙の乗車券」のフェイド・アウトの部分でベースに加えてリードギターを担当。「バック・イン・ザ U.S.S.R.」やジョージ作による「タックスマン」の間奏部とラスト部分などでもリードギターを弾いている。また「ブラックバード」などのアコースティック・ギターもポールが担当している。ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分はポール、ジョージ、ジョンの順番でギターソロ・リレーを演奏している。

ボーカル

4人全員がいずれかの曲でボーカルを担当しているが、基本的にはジョンとポールの2人がリード・ボーカル(メイン・ボーカル)を担当する事が多い。初期の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などでは、ジョンとポールの二人がメインのメロディーとハーモニーを担当しており、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、また「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「曲の進行に連れて担当が次々交代するパターン」などがある。ジョージは主に「サムシング」や「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「タックスマン」等の自作曲でボーカルを担当。リンゴは「イエロー・サブマリン」や「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」など、比較的コミカルな曲でボーカルを担当している。これは両曲のメイン作曲者であるポールが、リンゴにはシリアスな曲は似合わないと考えたため。

曲毎に使用された楽器

曲によっては基本編成以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と外部の演奏者がセッション参加した作品がある。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ」から3曲連続でジョンがハーモニカを演奏している。キーボードは、ポールが「マーサ・マイ・ディア」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」、ジョン作「セクシー・セディー」でピアノを担当しており。またビデオ版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」では「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンをポール自ら演奏しながら解説を行っている。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートの記録映像では「アイム・ダウン」でVOXのオルガンを演奏している。「ノルウェーの森」から導入されたシタールはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けている。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどもジョージが担当している。「ヘルター・スケルター」ではジョンがサックスを演奏している。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』においてジョージが導入した。1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でジョージが演奏。ポールも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。

セッション参加したミュージシャンの例では、まずメジャーデビューに際して、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイト(Andy White)が、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加している。ただしこれはメンバーの意向ではなくプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの。メンバーの自主的な判断による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」で弦楽四重奏団が、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペット奏者が招かれている。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを弾いているエリック・クラプトンや、「レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いているニッキー・ホプキンスが挙げられる。番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏を担当。また、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。映像記録が残っている例では、アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどでビリー・プレストンが参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。

利き手

ビートルズの4人のうち、ポールとリンゴは左利きであるとされている。ポールは自身が左利きだと述べている事、そして演奏するベース・ギター等が左利き用である事で確認されているが、リンゴは自身のコメントが無く、右利き用のドラムスを叩いていた。ただし映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」では、川に石を投げる時やカメラの遠隔操作式シャッターを持つ時の手が左である。

作詞作曲

ビートルズのオリジナル曲はメンバー自身が作詞作曲を行っている。

オリジナル曲の作詞作曲で最も多いのはジョンとポールの共作クレジットであるレノン=マッカートニーで、ビートルズナンバー213曲の内、153曲がこの名義になっている。レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆のマッカートニー=レノン作品8曲、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、ジョンとジョージの共作というパターンも存在する。

レノン=マッカートニー

同クレジット作品は米ビルボード/英ミュージック・ウィークともNo.1になった曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、「ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)」P94のポールのコメントによれば、プリーズ・プリーズ・ミーはジョンがメイン、P.S.アイ・ラヴ・ユーはポールがメイン、フロム・ミー・トゥ・ユーは半々、と様々なパターンが存在する。また同頁によれば、共同の作者として発表していくことは早い時期から決まっており、レノン=マッカートニーという序列はミーテイングの上で決定した。ただしアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」でのみマッカートニー=レノンという表記である。また「イエスタデイ」などポールがメインの作品の場合にマッカートニー=レノンという表記を使用する事も考えられたが、実現はしていない。

ビートルズ結成当初から、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に(原題・Give Peace a Chance)」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている)クレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはない(二十数曲程度)という意見に対して、後年ジョン・レノンはインタビューで否定しており、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」で多くの曲が共作であったと言明している。

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